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歪んだ正義



 或る暑い夏の日

 僕は、アメリカ人男性の友人に観光案内を頼まれた。

 車の中で、僕はわざと目的地を明かさなかった。

 その日は本当に暑かった。ハンドルを握る手に、そこにつながる腕に、シートと密着した背中に、或いは、半ズボンで剥き出しになった足に、ぷつぷつと汗が現れ流れ落ちる。愛車のポンコツ君は、去年の夏、クーラーが息を引き取ってしまっている。『新しい』中古車を買うほうが簡単だろうが、免許を取って初めて乗った自分の車は、別れ難い程の愛着がある。一応、四人乗りと言うことになっている本当に小さな軽自動車の前面は、とても愛嬌のある顔に見える。そのことを女友達に言って、大いに引かれたものだ。とにかく、車にクーラーは無い。窓を全開にして疾走するものの、入ってくるのは熱風と風切り音と狂い鳴く蝉の声。助手席に座る友人の顔にも、滝のような汗がある。お互いにハンカチを手放せない。
 友人は、あまりの暑さに無口で無気力になっていた。嫌々ながらも引きうけたガイド役だが、受けた以上は誠実にこなさなければならない。それが、僕のモットーだ。だから、僕は、まくし立てるように話し始めた。最初は、天気の話、次に自分の近況、共通の友人の男女関係に、大学の講義や教授の陰口。国際関係の科目から派生した話は、大きく脱線し、近代科学と、その主たる担い手であった近代アメリカの果たした偉大な役割を、褒め称える結果となった。

 実例をいくつかあげよう。

「今の世界経済の制度を生み出し、運営してきたのは紛れも無く君の国だよ。独占だとか、支配体制だとか言っているが、アメリカ無しでは今の世界は有り得ない」

「科学技術の発展には、多大な費用がかかるものだ。それらに惜しみなく巨費を注ぎ込み、人類全体の福祉に大いに貢献してきた。軍事目的もあるだろうが、それにしても、今の日本や他の国じゃ考えられない、素晴らしい態度だ」

「平和だって? 誰のお蔭だか皆分かってない。武器を持たない国に平和は無いよ。アメリカが居てくれなきゃ、この国はとっくに攻め滅ぼされてたさ。力無き正義は無意味ってね」

 彼は、僕が何かと槍玉にあげられるアメリカに同情していると思っただろうか? それとも、友人を喜ばせようとする目的のためだけの、ただの社交辞令として受け取ったのだろうか? どちらにせよ、祖国を誉められて嬉しくない人間は、普通いない。友人は上機嫌で、そうだそうだ。とか、分かってるじゃないか。とか言ったものだ。無論、英語でだが。

 アスファルトを逃げていく幻の泉を追いかけ続けて数時間後、目的地についた。本当はもっと早くに着くはずだったのだが、僕の準備不足の為に、車は合計五ヶ所で日光浴を楽しむ羽目になったのだ。無機質な自販機が、あれほど荘厳で神々しく見えたことは無い。

 漢字のほとんど分からない人間であったその友人にも、そこが何処かぐらいは分かったようである。前々から、彼を連れていきたいと思っていた場所だった。元々ちょっとした思いつきからのことだったが、実現してみると何か達成感のようなものがある。

 そこに展示されていたのは、焼けこげた衣類や、石に焼きついた影、皮膚が剥がれ落ち苦しむ人々の写真や、崩れ落ちた町の全景。広島の記念館に及ぶべくも無いが、確かにそれは原爆に関連した資料館であった。一歩入ると、心臓に悪いほど冷えた空気が、服と身体との間に入り込み、全身の血管が縮み上がった。あまり清潔とは言えない、言ってしまえば鉄筋コンクリート作りのボロい建物で、かび臭いような、それでいて、懐かしいような匂いがする。

「君は本当に人が悪いな」

 苦笑いをする金髪の友人には、自分が場違いな場所に居るという感覚しか見受けられない。僕は、笑い返すことをせず、至って真面目にこう答えた。

「君が何を言っているか理解できないな。僕は、こここそがアメリカの正義の体現の最たるものだと思っている」

 苦笑いが、引きつる。館内のクーラーのお蔭で、とっくの昔に汗は引いたはずだが、友人は顔をせわしなく、ハンカチでぬぐっている。

「現代物理学の最大の成果である原爆は、無益な戦争をいち早く終わらせた。多くの人と資産が失われずに済んだのだ。結果、今の世界の繁栄がある」

「僕に説教をする気かい?」

 引きつりが、痙攣と見まごうばかりに激しくなる。ハンカチは友人の左手の中で握りつぶされている。僕は無視して続けた。

「あそこに、老婦人が座って皆に何か語って聞かせているだろう? 彼女は、被爆者の生き残りさ。自分の経験を語ることで、君たちの祖国に復讐しようとしている」

 計画のなかで、唯一の失敗だったのは、老婦人の話が始まる前に到着できなかったことだ。話すべき事の順番を入れ替えるため、僕は大きく深く、そして長く深呼吸をした。実際には数秒のことだが、友人にとってはそうではなかったらしい。右足のかかとを一定のリズムで、こつこつ、と床に打ちつけている。彼がいらいらするときの癖だ。
 そこに居たのは、実に穏やかな表情で、上品な身のこなしの老婦人だった。多少悲しげに微笑みながら、彼女は自分が見てきた地獄の様子を方言混じりで語っていた。何度も何度も、繰り返し夢に見、思い出し、そして、語ってきた内容は、生々しい迫力を持っている。だが、青い目の友人にそれが聞き取れるはずも無い。
 物静かな表情の優しげな瞳の奥に、僕が言ったような復讐の炎を見つけたのか、見つからなかったのか、友人は、額に皺をよせ、黙って首を横に振った。
 僕は、続けた。

「彼女のような人達を支援している、原爆投下を非難する一連のグループが何を主張しているか知っているかい? アメリカは日本を使って原爆の実験を行ったと言うのさ。また、ロシアが参戦する前に戦争を終わらせたくって原爆を落としたとも言っている」

 彼は、語り続ける老婦人を見、展示されている焼け爛れた少年の写真を見、最後に僕を見た。僕の目を見ているようだった。僕が、本気なのか、ふざけているのか、正気なのか、狂っているのか、判断しかねているように見えた。
 僕は、至って自然に続けた。

「馬鹿らしいと思わないか? 原爆が落とされなければならなくなった、その理由を考えようともしない。相手の力量を知ろうともせず、戦争を始めたのはどこの国だい? ボクサーは、殴られたら殴り返してはいけないのかい? そんなことは無いはずだ。無論、ボクサーが本気で殴れば、相手は死んでしまうかもしれない。だから、ボクサーは、十分に手加減をし、二度と馬鹿な考えを起さない程度に痛めつけるだろう。君の祖国は、十分に紳士的な選択をしたよ。今のヒロシマを、ナガサキを、日本を見ろよ。見事に復興を果たし、大国の仲間入りをするまでになった」

 一呼吸置いて、友人の顔を窺ってみる。苦笑いは消えていた。代わりに、友人の右手が、こめかみの辺りをしきりに叩いていた。怒りを抑えようと努力しているときの癖だ。
 僕は、変わりなく続けた。

「確かに、ロシアの参戦が近かった。もし、ロシアが戦闘に大きくかかわるようになった後に、終戦が来たら、ロシアの国際社会でのイニシアチブが大きくなる。人間の知性を盲信した為に生まれた、余りに早すぎた幻想の楽園、共産主義と言う名の独裁体制が世界中に広がるのを、防ぐことが出来なくなってしまう。人間としての基本的権利すら奪われる、多くの不幸な民衆が生まれることになっただろう。事実、ロシアは参戦し、共産主義はある程度広まりを見せ、不幸な民衆が生まれてしまった。彼らのやり方が過ちであることは、冷戦終結からの国際情勢を見れば分かることだ。
 原爆を落とすことで、被害を抑えることが出来た面もある。なにより、被害を少なくするために、出来ることをしようとしたんだ」

 僕の背後では、老婦人の話がもうすぐ終わろうとしていた。さり気に観察すると、友人の唇は、『しかし』の最初の文字を吐き出そうとしていた。僕は、そう確信した。
 僕は、友人が言葉を音にする前に、続けた。

「大体において、戦争中に通常時の倫理を持ち込むべきではないと思うね。当時のアメリカは、原爆による犠牲者と、原爆を落とさなかった時の犠牲者の、両方の命を天秤に掛けざるを得なかったんだ。たとえば、君が銃をつきつけられて、僕を殺すように命令されたらどうする? 生き残るために君は僕を殺さねばならない。違うかい?」

 何気なく、僕が寄りかかったショーウィンドウには、赤ん坊をあやす女性の写真があった。血まみれで、大火傷を負った赤ん坊は、既に息絶えているのが、ぱっと見に分かった。女性もまた、焼け爛れ、焼け焦げ、髪の毛も衣服も申し訳程度だ。それでも女性と分かるのは、赤ん坊の口に押しつけられた乳房が、なんとか見分けられるからだ

「さあ、名誉ある死を喜ばず、筋違いな憎しみを抱いている連中を笑ってやろうじゃないか!」

 帰りの車の中で、友人は終始無言だった。夕日が落ちてしばらくすると、涼しいと呼ぶに値するだけの風が、車内を廻るようになった。会社が終わって、飲みにでも行くのだろう、笑い声が中央車線よりの車にまで届く。信号待ちをしている中年の男の人は、真っ直ぐ家に帰るのだろうか、それとも、気の合う友人と飲み屋で一杯やってから帰るのだろうか? スーパーを通り過ぎると、今夜の夕飯で頭を悩ませている主婦が大勢動き回っていた。赤ん坊を負ぶって買い物に来ている女性も見受けられる。
 赤ん坊は、泣いている。
 夕日が、沈み始める頃に友人宅に着いた。車から降りた友人と、運転席から多少身を乗り出すようにして見上げる僕の目が合う。

「見損なったよ」

 僕は軽く会釈をして、その場を辞した。

 自販機でコーヒーを買う。
 電灯が一つしかない真っ暗な公園で、朽ちかけたブランコに腰掛けた。電灯の廻りを一羽の蛾が飛びまわっていた。車に乗っていた時は気づかなかったが、風が無い。蒸し暑い空気が公園によどんでいる。辺りのアパートや家々から、暖かい光や楽しげな声がもれていたが、公園の空気とは無関係だった。
 コーヒーを飲もうとして、気づく。こんなに暑い日に、僕はどうして熱い方を買ってしまったのだろう? いやそもそも、どうして、熱いコーヒーが自販機にあったのだろうか?













 忘れたのか?













 それとも













 ただ、面倒だったのか?














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