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閑話休題





書き始める前に、断っておきたい。
この文章は、「ダ・デアル口調」で書く。
その方が、ごまかしなく力強く書いていけるからである。
普段の文章と違って、堅いものになるかもしれないが、ゆえあってのことであることを、ご了承願いたいのである。








僕にとって、あまりに当たり前なので、書くのを忘れてしまったことがある。
知人から指摘をうけて、やっと気がついた。
書くべきことであった。→書かなかった。→物書き失格である。
うむ、悲しき三段論法である。




本題に戻る。
竜崎勇気。
そう呼ばれている、不思議な青年のことである。
彼の心理が理解できないという、彼の行動はどう考えても、矛盾だらけだというのだ。




なるほど、冷静に考えれば、分かり難い部分が多すぎる。
具体的に考えてみる。
オリジナルの物語を書くとき、素人(つまり僕)は、どうしても主人公と自分を重ねてしまう。これは、ご理解していただけると思う。
自分と重ねた主人公は、書きやすい。しかし、つきつめると書きにくいとも言える。
主観と客観が入り混じると、混乱が生じるからである。
主人公の行動は、作者(僕)にとって当たり前のものである。
しかし、読者にとっては、当たり前であるはずがない。
他のキャラクターは、作者にとっても他人である。客観的に構成し、客観的に動かし、客観的に観察することができる。
主人公は、既に(作者本人として)構成されており、主観的に動き、往々にして観察されることがない。現に勇気君は、主人公の癖にあまり描写の中心にならない。
非常にまずいことである。最初は注意していたのだが、いつのまにか、勇気君はどこかに行ってしまった。まるで、対人関係における僕のようだ。
どうしてこうなってしまうのか? 答えは簡単である。
自分を観察すると言うのは、物理的に困難なのだ。自分の内面を観察するのは、果てしなく苦痛なのだ。
自分の内面を深く観察し、あまつさえ、それを不特定多数の目にさらすとしたら、とんでもない精神的苦痛が生じるだろう。
そう言う点で、自伝を書かれる方々は尊敬に値すると、つくづく思う。
が、である。
作り物だけの物語なら、印刷技術の一般化から延々つづく文学史の中に、珠玉が沢山ある。インターネット上にも、小説家を目指しているような猛者が沢山いる。
僕のような、素人に、立ち入る隙などない。
読者に無益な時間を浪費させるような、酔狂で無配慮な人間にはなりたくない。
読ませるからには、読む価値のあるものを作りたい。
大長編になってしまったこの物語を、嬉しいことに、面白いと言ってくださる方が、数人いらっしゃる。それが、救いではある。
が、もっと改良の余地があるなら、僕はいくらでも改良したい。否、改良せねばならないのである。
極論を言えば、自分をさらけ出さねば、この物語は永遠に無意味なままである。
勇気君を通して、自分を探す。正直に言うと、それがこの物語を書き始めた本来の目的なのだ。
面白い、と言う感想より、共感した、と言う感想を得られるようにするのが、本来の目的(その2)なのだ。
多少きざな言い方をすれば、これは実践型の哲学である。
はずであった。
いつのまにか、忘れていた次第で、非常に嘆かわしい。
第2章に入るのを機会に、軌道修正を試みたいのである。




また、話がそれた、本題に戻る。
で、勇気君の行動原理について、説明が必要と気づいた次第である。
時系列に従い、その時何を考えていたのかを見た後、彼(つまり僕)の普遍的行動原理を明かにしたいと思う。




では、いこう。
勇気君は、無理矢理異世界にに引きずり込まれた。
「なんか大変なことになってるみたいだし、手伝えるなら手伝おうかな?」
影という、異形の怪物と闘うはめになる。
「帰れないんだから、しょうがない。爺さんを信じて間違いないだろ。なんとかなるさ。いざとなりゃ、逃げればいいし」
事情もロクに説明されず、勇気君は最強(最凶?)の監視者と共に危険な魔境を渡り歩くことになった。
「ま、一人よりはマシだな。事情はおいおいわかるだろ」
いつのまにか、麗子の婚約者にされてたり。
「みんな好きだね、こういうネタ。楽しそうだから、いいか」
なりゆきで、暗殺者と死闘をしたり。
「向こうも仕事なんだろうが、やっぱ、人を殺すのはいかん。あきらめてもらおう」
民族紛争にまきこまれたり。
「とりあえず、できる事をしよう。暴れてたら話し合いはできないし。大人しくなってもらおう」
やっぱり、バケモノと闘ったり。
「生き物じゃない。あってはならないものだ。こりゃ、全力で倒すしかないな」
目の前で、人が死んだり。
「助けられなかった。なんでだ!」
死ぬ目にあったり(複数回)。
「なんとかなる!」
麗子の父親を、結果的に殺すことになったり。
「迷ってる場合じゃない。僕にしかできない。他の誰にもやらせるわけにはいかないんだ。世界が終わってたら、後悔もできない」
光の竜に身体のっとられたり。
「あう」
異空間に封印されたり。
「あう。永遠にお終いですか。さて、どうしようかな?」
いつのまにか復活してたり。
「あう。どうにかなったな。で、これから、どうしよう」




ざっと、ごくごく簡単にまとめてみた。
これらの台詞を、物語中におり込めば良かったのだろうが、先に述べた理由で、しなかった。否、し忘れた。(;_;)




話がそれた。行動原理をまとめよう。




一言で言って、竜崎勇気は「感覚の人」である。
受動的な生き方にも見えよう。でも、勇気君は自分で感じたことを第一に考えている。他人に指図されて、そのまま行動しているわけではない。言うなれば、自分の感覚に受動的なのだ。まるで、動物である。(T_T)
現状で、一番にしなければならないことを、考えること無しに実行する。
久遠の状況を把握することで、否、把握する前に、勇気君は自分のなすべきことを知った。感覚を通して、である。
出会った人々の言葉、表情、気持ち。久遠そのもののもつ雰囲気。それらを通して勇気は「何か」を感じ、その「何か」を言葉にすることなく、考えることなく、その「何か」を実行する。
何も考えていないとよく言われるが、その通りなのだ。「何」も考えずに「何か」を知り、「何か」を為す。
だから、勇気君が物語の中で
「帰りたい」
「なんで僕なんだ!」
「もう嫌だ」
と、言ったことがないのである。行動原理が違うのだから、その反応も違う。多くの人の共感が得られるはずもない。(^_^;
ここで、多くの賢明な読者の皆様は、ある疑問に気づいたはずである。
「この主人公は、本当に作者の投影なのか? ただの理想ではないのか?」
ごもっとも、多分に理想である。変な理想ではあるが。
が、読者の皆様が思っているより、僕は勇気君に近いと思っている。
あと十年のうちには、勇気君の境地に到達できる。そう、確信している。
バカだと思うなら、バカだと思っていただいて結構。
誰がなんと言おうと、僕が確信しているのだから、関係無いのである。
不快に思ったら、許して欲しい。それだけ、信じているのだと、分かっていただければ幸いである。




話が、
それた。




竜崎勇気には、家族がある。
時間軸が異なるから、勇気がいなくなったのは、家族にとっては数秒のことになる。
よって、問題になるのは、勇気の家族に対する考えである。
またしても一言である。
「絶対の信頼」
会いたいとは思わない。離れていても家族は家族。心配しているかもしれないが、究極的には自分を信じている、と信じている。実際信じているのだが。
だから、会えなくてもかまわない。会えるにこしたことはないが、会えなくても、家族は家族である。
帰れるときには帰れるとも、信じているのもあるが。
基本的に放任主義で育てられた。許されざることをした後は、厳罰があったが、それ以外は全て自分の責任であった。
「好きにしろ、責任は一緒にとってやる」
とは、いつもは大人しい父親の言葉である。モデルが、僕の家族なのは言うまでもない。依存してはいない。が、精神的な支えである。理想ではない。僕の家族の現実である。
信じる信じないはお任せするが。




最後戯れに、竜崎勇気の恋愛観(つまり僕の)を書こう。
最後も一言で言おう。
「時が来れば、出会えるもんだ」
根拠の無い自信である。刺激的な女性との出会いを求めて生きる人もいるだろう、将来的なことを考える人もいるだろう。僕は違う。ただ、それだけのことである。
多くの人が、勇気と麗子のコンビに、ありがちなラブコメ展開を予想したと思う。断言しておこう。麗子に関して、恋愛感情は皆無と思って頂いてよいと思う。あえて言うなら、妹である。
(余談だが、勇気の妹は勝気で偉そうで、麗子に似ている。力関係で勇気が下なのも同じである(;_;))
忍は、様々な要因から、きっぱり問題外である。
恋愛をしたくないわけではない。年頃である。興味はある。ただ、恋に恋するほど、人間ではなく、美人に発情するほど動物でもない。困ったもんである(^_^;




分かっていただけただろうか?
以上を踏まえた上で、第2章での竜崎勇気の動向に注目していただきたい。
と、切に願う次第である。
もとはと言えば僕の力不足である。そのせいで、読者の皆様に、かような堅い文章を読む苦痛を強いることになった。
非常に申し訳無い。(遺憾である、とは口が裂けても言いたくない)




精進します。m(__)m




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