「ふあぁぁ」
街行く人々が足を止め、目を丸くしてその欠伸を見た。我々の物語の主人公である。年の頃は16〜7、すらっとした長身の青年で、学生服を着ている。何の気なしにした欠伸なのだろうが、傍目にはもうちょっとであごが外れるんじゃないかと思うくらい、馬鹿でかく口を開いている。作者としては物語の先行きが多少不安になる。
しかし、欠伸をし終えまじめになった顔は端正なもので、あまり手入れをしていないであろうその髪も、割ときれいにまとまっており、もし、彼がもう少し手入れをしていれば、『緑の黒髪』と言っても過言ではない。そして瞳。まっすぐ前を見つめるその眼には計り知れない深さ、力強さ、純粋さが見て取れる。やはり、主人公然としたところはあるようだ。
「ふがあぁぁ」
再び青年は欠伸をした。周囲の視線などなんとも思っていないらしい。いや、ただ気づいていないだけのようだ。さっきから前をぼんやり見ているだけである。待ち合わせでもしているのだろうか。手には袋に入れたままの竹刀をもてあそんでいる。さすが主人公、武道のたしなみがあるようだ。
「ひまだぁ」
前言撤回。ただの暇人が商店街のベンチに座っているだけのようだ。この主人公やる気はあるのだろうか?
彼はしばらく動きそうにないので、その間に彼の簡単な紹介でもしよう。彼の名は竜崎勇気、高校1年生、剣道部に所属しており期待の新人と目されるほどの腕前である。今日も部活に来たのだが、実は今日は体育館の関係で部活のできない日だったのである。といっても、事前に連絡はあったのだがそれを忘れてしまったのだ。ちなみに、一時間ほど待っていた。ほかに誰も来ないので、ようやく気がついた次第である。
「よっこらしょっと」
どうやら家へ帰ることにしたらしい。すたっと立ち上がるとテクテク歩き出した。
勇気の家は街の南側にある住宅街にある。商店街から歩いて15分と言ったところだ。商店街の活気とは裏腹に、昼間の住宅街は閑散としている。が、そんなことに気がつくような勇気ではない。すたすたと大またに歩いていく。
大きな十字路に差し掛かったときだった。
勇気が突然、不自然な立ち止まり方をした。
長年武道をやってきた人間持つと言う特有の感覚が何かを捕らえたのだ。勇気は生来その能力に優れていた。小さいころから植物や動物が、「悲しんでる」とか「喜んでる」とか言ったり、足音が聞こえてくる前に、誰かがやってくるのを感じ取ったりして、周囲の大人たちを驚かせた。そんな勇気の才能を見込んだ祖父が、剣道の道場を経営していた友人のところへ入らせたのが、剣の道の始まりだった。
――ここは?―――どこだ?
いつもの見慣れた街並である。しかし、何かが決定的に違うのだ。
あたりを見回しながら、ゆっくりと歩き出す。
――何が違う?
一体何が、と考えて、勇気はやっと理解した。なんとも言えぬ街の匂い、気配とも言えよう、それが微妙に違うのだ。ほんのわずかな差異ではあるが、それは決定的に異なっていた。常識的に考えれば、そんなのは思い過ごしでしかないのだろうが、勇気の感覚は何の予断も無く、そう結論した。
いつもの帰宅時と同じように、タバコ屋の角を左へ曲がる。
そこには――
――ここは、いつもの街じゃない。
そこには、もはや見慣れた路地は無く、代わりに数メートルの壁に囲まれた巨大な邸宅が建っていた。異様な気配はその邸宅から流れ出ているように感じられた。呆然とその巨大な建造物を眺める。ふと、正門のようなところに目がいった。
――人が。
そこにいたのは、小柄な老人だった。やけに大きな眼鏡をかけて、あまりに時代はずれな朱色の服を着ている。勇気はその服と同じようなデザインを歴史の教科書で見たのを思い出した。
――確か、中国の戦国時代だったか。
老人は、テクテクと近づいてくると、突然こう言った。
「第566代竜帝、ジエイさまの命により、朱雀公凰斉、蒼竜の転身たるあなた様をお迎えに参りました」
「ここはどこだ。爺さんは何者だ」
至極当然の疑問を口にする。勇気の手には反射的に握った竹刀が、老人に向けられている。しかし、凰斉と名乗る老人は、にこにことするだけで、答えない。
「まあ、立ち話で話せるようなことではないでの」
老人は、途端にくだけた言葉遣いになって言った。
「屋敷の中へ入りましょうぞ」
老人の言葉に、勇気は訳も無く、軽いめまいを覚えた。竹刀を杖にし、片手で額を押さえる。気を取りなおして老人の方に向き直る。と、そこはもはや正門前ではなく、どうやら、先ほどの邸宅の一室らしき大広間になっていた。あまりに奇妙なことが連続して、勇気は多少混乱気味である。しかし、その警戒は一向に緩む気配はない。
隙のない構えであたりを見回した。
そこは、巨大な屋敷の大広間。そのど真ん中のようだった。十数メートル離れたところにある(凄まじいデカさだ)四方の壁には巨大な一羽の赤い鳥と、それに従うように居並ぶ無数の人間たちが描かれている。人間たちの服装はそろって朱色だ。何本もの大きな柱に支えられた天井ははるか上にあるらしく、何か絵が描かれているようだが肉眼では確認できない。壁の絵画と同じようなものなのだろう。
―――まるで、
勇気は、そこがまるで燃えているかのように感じた。
絵の鳥と人間をはじめ、ここのあるもの全てが燃え立つような赤で統一されているのだ。絨毯もカーテンも端の方にあるソファも壁紙も、それどころか壁や柱自体さえも、まるで紅蓮の炎に焼かれているみたいに真っ赤なのだ。が、なぜか嫌味がまったくない。当たり前のものとして受け取れてしまう。普通だったら、目がちかちかしてしょうがないだろうに。それがない。
「先ほども申しました通り、」老人が、答え始める。
「私は朱雀公凰斉、竜帝の命により――――」
「ちょっと待ってくれ」必死で頭を回転させながら、勇気は老人、凰斉の話を遮った。
「スザクコウってなんだ?リュウテイってのもわからない。何の説明もなしに人をこんなところに連れてきて、一体どうしようってんだ」
小気味よく凰斉老人は笑った。嘲っているのでもなく、かといって心底おかしくて笑っているのでもない。どちらかと言うと、小さい子どもに「これなあに?」と聞かれた大人が、その質問のかわいらしさに笑いながら「それはね、」と答えるような感じだった。
「いや、申し訳ない。わしも気がせいていましたの。こちらに来てから説明する約束でしたものな」
老人の口調は、またも途端にくだけたものになった。そんな約束をした覚えはないが、勇気は凰斉老人の話を聞くことにした。無論、竹刀は構えたままである。
「ここは、『久遠』と言う国じゃ。お主の世界で言うと日本海があるあたりになるかの。ここはお主の世界の『双子』なのじゃよ―――――――――
老人の思ったより力強い声が響く。誰もいない空間はその声を受けて、さながら幻想的に揺れ動く―――――
――ああ、やっぱり燃えているんだ。だからゆらめくんだ。そんなことをぼんやり考えた。もはや、竹刀はだらりと下を向いていた。
老人は、さも楽しそうに話し始めた。
――ここは『久遠』と言う国じゃ。お主の世界で言うと日本海があるあたりになるかの。
ここはお主の世界の『双子』なのじゃよ。
一体何を言い出すんだ?
――そう変な顔をするでない。お主も聞いたことがあろう。第二の地球だの、パラレルワールドだのの話は。ここは、お主の世界のちょうど反対側にある世界。いや、場所が、と言う意味ではないぞ。精神と物質の関係が、と言うことじゃ。
訳がわからない。
――精神の物質に対する優位と言うことじゃ。お主らの世界では、物質の方が精神に対して優位に立っておろう?それが逆なのじゃよ。つまるところ、この世界は、お主らの物質世界とは異なる精神世界と言うことになる。
どう言う意味だ?
――いやいや、俄かには信じられまいて。そんなことは求めておらんよ。ただ、約束どおりに説明をしているだけじゃ。
これは、悪い夢なのか?そうでないのなら――
――今、お主が考えていることを当ててしんぜよう。『これは、大掛かりな詐欺、もしくは悪戯の類だ。そうに違いない。』
心を読んだ?!まさか!
――はは、そう驚くでない。こんなことは、お主の世界で言う心理学でも使えば、事足りる。魔法でも何でもない。こんなことで信じてしまっては、悪徳商法にすぐ引っかかってしまうぞ。
この爺さんは一体――
――お主ほどの力量ならば、わしに悪意があるかどうかぐらい分かっておろう。しばらくは、わしの言う通りにしてくれんかの。
とにかく、ここから出るんだ――
――もっとも、わしから逃げようとしても無駄じゃがの。それも分かっておるのはずじゃ。
無理――だろうな。
老人の一言一言が、勇気から反抗する気力を失わせていった。
――お主にはやってもらわねばならぬことが、山ほどあるんじゃからな。
勇気は老人の眼を見ることができなくなって、視線を泳がせた。
ゆらゆら、ユラユラ。ゆらゆら、ユラユラ。ゆらゆら、ユラユラ。
炎の如き朱色の幻想的な光景が、眼に映る。
大きな壁面いっぱいに描かれた、火の鳥と目が合った
――気がした。
全てを見透かすような透明な目線に、
勇気の最後の抵抗心は脆くも崩れ去っていった。
――ここは、『異世界』…………
天地開闢より五百六十七華巡(34020年)、異世界『久遠』に不吉な影が訪れようとしていた。始まりは、西の守護神、白虎の託宣だった。神懸った巫女は告げた。
「これより、運命の時ぞ。我が子らよ、決して見誤るな。見誤れば、全ては無に帰するであろう。敵は己ぞ。己に欺かれぬようにするのじゃ。己の信ずるものも信じてはならぬ。―――始まりは、影。影の者ぞ。決して「あやつ」に神具を渡さぬことじゃ。我が言葉も「あやつ」に歪められる。―――我が子らよ、真実は………」
白虎は、何かを伝えようともがいていた。それは巫女の苦しげな表情から手に取るように分かったのだと言う。いつも無表情に真実を語る白き神からは想像もできないことだった。
「我が子らよ、真実は―――――ぬぅ、やはり「あやつ」か。言葉が乱れよる。もはやこれまで。我は、もはや真実を語ることあたわず。我が託宣はこれが最後ぞ。これより後の言葉を信じてはならぬ。よいか。真実を見極めよ。為すべきことを為せ――――」
―――そのご神託から間もなく、各地に今までにないほど無数の『影』が現れ、久遠は混沌の中へと陥ちていった。