「誰だろうと、殺す」
その瞬間、忍は、死を覚悟した。あまりに実力が違いすぎる。その相手が、自分の死を告げたのだ。逃れることすら考えられなかった。
巡る思い出。
厳しく、そして優しかった父。
いつもにこやかに笑っていた母。
苦しい訓練の合間に、こっそり差し入れにきた祖父。
それを見て見ぬ振りをしてくれた祖母。
共に笑い、そして競い合った友。
そして、
まだ見ぬ運命の男性(ヒト)。
「霧狼君! 逃げなさい!」
シンが叫ぶ。しかし、足が言うことを聞いてくれない。
そんな中、忍は自分に語りかける声が、もう一つあることに気づいた。
――― 風 ―――
風が、何かを伝えようとしている。
(何?)
――― ……セロ。 ―――
(えっ?)
――― フセロ。 ―――
(フ・セ・ロ?)
「伏せろ!」
今度は、実際の音声として、はっきり聞こえた。それは、忍の背後からの怒声だった。声の主を確かめる前に、忍は風の導くままに、地面に伏せる。
「せいやぁぁぁぁぁっ!」
風が悲鳴をあげるほどのスピードで、何かが忍の頭上を通りすぎていく。
「……っ!」
蒼き光をまとった青年が、死神に体当たりを食らわせたのだ。恐ろしいほどのスピードで。そう、あの死神が避けきれぬほどのスピードで。
「―――、あっ」
恐る恐る顔を上げた忍が見たのは、間合いを取りなおした死神と対峙する、同年代の青年だった。
「久しぶりだな。ええと、ふれっど君だったっけ?」
その場に相応しくない、のー天気な口調。我らが主人公、竜崎勇気、その人である!
「……貴様、また俺の邪魔をするのか」
「だってよう、人がゆっくり寝てんのに、こんなに寒くしたらダメだろ」
なにか、ピントの外れた応答をする勇気。
「……邪魔するなら、殺す」
珍しく殺気立っているフレッドに、勇気の顔も引き締まった。
「人殺しを見て見ぬ振りは出来ない。邪魔させてもらうぜ」
「丸腰で、何が出来るというのだ」
「えっ? あああっ」
慌てる青年。
忍の顔がゆがむ。助けてもらっといてなんだが、青年は自分の獲物を忘れてきたらしく。何も武器らしいものを持っていなかった。間抜けである。
「容赦はしない。俺は今、機嫌が悪いんだ」
いつになく饒舌なフレッド。今度こそダメだ、と忍が諦めようとした時だ。
「―――なあんちゃって」
勇気が、急に不敵に笑った。
右手を顔の前にかざし、左手でその袖をまくる。右手首に、蒼い石のようなものでできたブレスレットがあった。
「? その腕輪がどうした」
「へへ、白虎公さんに作ってもらった剣には、なんか気合の入った機能が沢山ついててさ」
その原因が、白虎公夫人ジュリアさんであることは、言うまでも無い。
勇気は両手を交差させながら、ミトラに教わった言葉を唱えた。
「来れ!」
一瞬の内に、ブレスレットから光が発し、それが右手を伝って渦巻き、交差させた両手の十センチ前に、横に棒状の形に集まる。
「轟刃(とどろくやいば)!!!」
その光の棒にそって両手を開くようにスライドさせる。その動作に伴い、光が振り払われるようにして消え去り、その中から、一振りの剣が現れた。ブレスレットと同じ蒼い石でできた、両刃の石剣である。スライドさせた右手でその柄を掴む。その間、数秒にも満たない。
「下らん手品に付き合っている暇は無い」
「そういうなよ、結構気に入ってるんだ」
「……この前のようにはいかん」
「望むとこさ。行くぜ!」
忍はというと……、
恋する乙女の瞳で、勇気を見つめたりなんかしていたりして、ああ、波乱の予感。
純和風のお茶の間である。
そこには、真中にコタツ、その上に飲みかけのお茶が二つと奇怪な鉄の箱、コタツの周りには、何者かが蹴飛ばした座布団が散らかっている。
そして、その脇に氷の塊。
以前は、『新谷清明』と呼ばれていた、物体。永遠の氷の呪縛に閉ざされ、もはや、その命も尽きようとしている。
――――――。
変化は、唐突で、一瞬だった。
闇。
全ての光を吸い込み、決して逃さない絶対の闇が、氷の彫像を包むように発生したのだ。
まるで生き物のように、闇は蠢いた。最初のうちは、もやもやした煙のようだったものが、徐々にその濃さを増し、清明の姿は見えなくなった。闇の塊にのみこまれ、その内部は窺い知れない。
そして、闇は生じた時と同じように、唐突に消えた。氷づけの清明と共に。
屋根の上。
ヴァイオリンをギターのように抱えた、金髪の青年が、さも愉快そうに眼下の闘いを眺めている。瓦の屋根とヴァイオリニストは、あまりにミスマッチだ。
「うんうん。やっぱりヒーローは一番のピンチに現れないとね♪」
勇気とフレッドが、森の中を繁華街のネオンのような図形を描きながら、数百回切り結ぶ。弥陀の時と違って、今回は全くの互角。闘いはどこまでも続くかに思われた。
「さすがだね。二人ともどんどん強くなる。やっぱ、ライバルっていいなぁ」
その背後に、闇が再び現れた。そして、徐々に何かを形作る。二足歩行の獣のような、それは『影』の基本形にも思われた。ロバートが、ようやく気づいて振りかえる。
「あ、参謀」
間の抜けた、それでいて爽やかな声で、親しげに話しかける。
「あ、参謀、じゃないだろが」
深く心をえぐるような、低い声。闇は真っ黒なローブを羽織り、サングラスをかけた人物になっていた。時折、月光の加減でサングラス越しに伺えるその目は、全てを拒絶するが如く、何の輝きを持たない。暗闇が光を吸い込み、反射することが無いように。
「ずいぶん遅かったじゃないですか」
「まだ、気づかれるわけにはいかんからな。それより……」
「? なんです?」
「お前、なんで何もしない」
「だって、ライバルの決闘に第三者が首を突っ込んでいいわけないでしょう」
「お前なぁ」
参謀と呼ばれた人物は、飽きれたように、肩をすくめる。
「まあ、いい。それより、司令はまだか?」
「今、来た」
もう一つの闇が現れる。今度は、かすみも揺るぎもせず、刹那の後に、それは、二人の前に『存在』した。真っ黒なマント、そして鎧。ゆらぎ続ける髪。常人には直視のできない、心の奥底を見通す暗闇を宿した瞳。まるで、虚無をそのまま人の形に切り取ったかに見える。
「司令も遅いですよ」
恐怖と憎悪をもって迎えられるべき、闇の権化に、ロバートはまたも爽やかに、親しげに話しかけた。
「すまん」
微動だにせずに、司令と呼ばれた人物が言う。
「ああ、司令。それでは示しがつきません」
「すまん」
「まあ、いいじゃないですか。司令のそんなところ僕は好きだなぁ」
悪戯っぽく、ロバートが微笑む。
「状況は」
無視しているのか、感じるところが無いのか。
「はっ。『新谷清明』は、無事『保護』しました」
「『星雨真羅』も、無事に『離脱』した」
「ええと、さっきまでは、忍君とフレッド君が戦ってたけど、今は、勇気君とフレッド君がやってる。ほぼ互角だね。思うに、このままでは共倒れだ」
「うむ」
「では、どのようにいたしましょう?」
「どうもこうも無いでしょう。いつも通りにやるだけですよ」
「我々は、別に構わんが、君に出来るか?」
「誰に言ってるか、分かってます?」
吹き渡る風に髪をなびかせ、ヴァイオリンをしまいながら笑う。
「いつも通りに」
「御意」
「じゃ、行きましょうか」
三人の姿が、突如闇に飲まれ、消えた。
「ああ、あの人は……」
未だに、恋する乙女まっしぐらな忍。その前に、いきなり、一人の人物が現れる。
「貴方は?」
「恋のキューピッド、、、じゃなくてごめんね」
記憶に残る、爽やかな声とため息が出るほどの美しい容姿。
しかし、後に発見された忍には、その記憶は無かった。
「なんだ?」
目の前にいたハズのフレッドが消え、急に辺りが真っ暗になった。
「誰だ? フレッドか?」
真っ暗なのではない。完全な闇だ。光が無い。感覚が、闇の向こうにいる何者かを感じとる。
「リュート、久しいな」
うっすらと見える黒いローブの人物。その声を最後に、勇気は気を失った。
「……?」
フレッドの前に、いつの間にか闇が『存在』した。
「お前の心は、病んでいるな」
抑揚の無い声。黒いマントと鎧。
「貴様、何者だ」
その質問には答えず、闇は言葉を続ける。
「お前の心の闇は、深く悲しい」
「何を? ……きさま、何をし、た」
意識が揺らぐ。フレッドの意識は、闇の深淵へ落ち込んでいった。
――――――お兄ちゃん!
お前は?
――――――お兄ちゃんてばぁ!
エリス? エリスなのか!
――――――えへへ。このお花、うちがお兄ちゃんに摘んだんやで。きれいやろ?
ああ、とってもきれいだよ。ありがとう、エリス。
――――――きゃあああああああ!
どうした!? エリス!
――――――いややぁ! 助けてお兄ちゃん!
お前ら何者だ!! 妹に何をする!!!
――――――お兄ちゃん!
くそっ、放せ! 妹が巫女? 知るか! エリスは俺の……
――――――お兄ちゃん、もうええ。お兄ちゃんが死んでまう!
俺の……妹……だ。俺が……守る……ん……だ。
――――――お兄ちゃん!!!
待ってろエリス! 今、助けて、や・る・か・ら・な……
――――――振り上げられた男の拳。暗転する視界。絶望的な無力感。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
再び、闇。
「お前の悲しみは、我々にも責任がある。この場を借りて謝る」
力無く、うずくまるフレッド。
「私に今出来るのは、お前の悲しみを共有することだけだ」
「お前に何がわかる! この俺の何がわかるというんだ!!!」
ふらふらと掴みかかるフレッド。光無き世界。引き寄せた闇の顔が、フレッド自身の光にかすかに浮かぶ。
「貴様は?!」
その顔は、フレッドの知っている人物にうりふたつだった。
「悪いが、時間が無い。氷竜の子よ、いずれまた会おう」
横からフレッドの腕を掴み、闇から引き離す、黒いローブとサングラスの男。
「そ・ゆ・こ・と」
背後から、爽やかな声と共に肩を掴まれる。
「貴様らが、なぜ?」
薄れ行く意識の中、フレッドは己を嘲笑した。
力の無い笑みで。
人を馬鹿にしているとしか思えなかった。
フレッドは、蒼竜公の警備について、三つのあまりありそうでない仮説を立てた。第一に、科学者セイが実力者である場合。第二に、蒼竜公シン自身が、隠れた『力』を持っている場合。そして、最後に完全に気配を消した護衛がいる場合。
その全てが真実だったというのか。
そして、フレッドの意識は深い闇の中に沈んでいった。
「記憶は、闇に閉ざされた」
「ロバート、後は頼む」
「はいはい」
数日後、白虎公公邸の正門前に、うつぶせに倒れていた彼には、闇の者の記憶は無かった。