人の足では、端から端まで一日で歩くことが不可能なくらい広大な朱雀公公邸の一角。
来賓用の部屋が長々と並ぶ区域である。
絨毯、柱、天井、果ては壁にかけられた絵までが朱色で統一されている廊下。
原色の赤ではない、それでいて鮮やかな落ちついた赤が、静かに燃える炎のようである。
挙動不審な人物がいた。
眼鏡をかけ、長い髪をおさげにした女性である。
その典型的な服装が、彼女の仕事を教えてくれる。
どこからどう見ても、事務員である。
書類を胸に抱きかかえて、あたりをきょろきょろと見ている。
意を決したように歩き出しても、すぐに次の分岐に当たり、立ち止まる。
慣れない区画の似たような道の連続に、迷ったようである。
良く見ると、半べそをかいているのが分かる。
ドジという人種は、どこにでもいるものである。
しかし、自分の仕事場で道に迷い、あまつさえ半べそをかくなぞ、尋常ではない。
半べそなのにはワケがあった。
「出る」のである。
夕暮れ、逢魔が刻・・・
今まさに、このあたりで・・・
真っ黒な僧侶の亡霊が出る・・・
「なーんて、単なる噂よ、う・わ・さ!」
とか、空元気を出してみる。
「霊的に守護されたこの朱雀の城の中に、魔物がでるはずないじゃない!」
理屈を述べて、自分を説得してみる。
「でも、魔物は出なくても、幽霊は出たりして・・・」
自爆。うつむいたまま、立ち止まる。
「まさかねぇ? これでも運は良い方だし、死者に対しての相対感度は悪い方だしぃ」
もはや、屁理屈ですらない。
「出ないでよねっ! 今だけでいいから出ないで!」
さっきから、この繰り返しである。
「・・・・は、・・・・・ろな・・・・を」
「ひっ!」
自分の後ろから突如聞こえた尋常ならざる声に、ドジ娘(仮)は腰を抜かしそうになった。転ばずに踏みとどまったものの、足が縛りつけられたように動かない。
声は、経文のようにも聞こえた。低く腹の底に響くような声で、朗々と吟じられている。
ドジ娘(仮)は、飛びまわる羽虫の羽ばたきが数えられるくらいの超スロー再生で、後を向いた。ぎしぎしと音の聞こえそうな、油切れのからくり人形のようである。
「なあんだ、先輩じゃないですか?!」
彼女は、見なれた先輩事務官の姿を認めて、心底安心した。ドジばかりの自分をいつもサポートしてくれる優しい先輩である。多分、帰りが遅いので探しに来てくれたのだ。
「・・・・・めて・・・・・く、いの・・・・・・・の・・」
経文のような声は、先輩事務官が出しているらしい。
「なんですか? 声小さくてわかりませんよ?」
「・・・・つめて・・・・・く、い・ち・・・・く・・・を」
「なにわけわかんないこと言ってんですか、先輩?」
「……」
「もう。脅かそうたって、ダメですからね?」
「……」
虚ろな目である。
「先輩?」
「……」
ドジ娘(仮)は、今自分が、幽霊よりも怖い状況にあることに気づいた。
今いる区画は、例の噂のせいで昼間でも、全く人がいない。ましてや、逢魔ヶ刻。先輩(男)と二人きりである。今襲われたら、助けは呼べない。
そう考えてみると、先輩の虚ろな目が、それらしく見えてくる。
「せ、先輩! 冗談はよしましょうよ!」
先輩の攻撃! 先輩は飛びかかった! 反応できない!
「きゃっ!」
飛びかかるように見えたのは、先輩事務官が前のめりに、不自然な形で倒れたからである。糸の切れた操り人形のように、崩れ落ちたのだ。
「ひとがたは、うつろうつろなくうのきを、あつめたぐりたみえぬいと、あつめあつめていくせんおく、いのちをもたぬくうのみを、あつめあつめたむなしきで、あみあげたるはいつわりの、こころならざるこころにて、いかにせいじゃのわざとても、ならぬことわりならぬもの、ならばなんじをひきさいて、なんじのこころをひきさいて、めにはみえないいとをつみ、あみあげたるはうつろなる、ひとかたしろのうつくしき、てんにょのごときひとかたを、、、、」
大人数の怒鳴り声での読経というのが、一番近い表現であろうか。今まで聞こえていたものより一段と大きな声が、響いた。
天井の高い廊下の、空間そのものを揺るがす響きが、あたりを支配した。
囲まれていた。
いつの間にか再び立ち上がった先輩事務官と、同じように虚ろな目をした集団。
「あらあら、私の可愛い人形たちが騒ぐから何事かと思えば…、楽しいお客さんが来てくれたようね?」
虚ろな目をした集団の中から、瞳の輝きを失っていない人間が一歩前に進み出た。
ガイロニア外務省筆頭外交事務官、エリナ=イスラーク。
彼女が「可愛い人形たち」と呼ぶ集団の中は、我々がよく知る人物がいた。
まとまってるんだか乱れてるんだか分からない、黒髪。紺色の学生服、らしき服。そして、竹刀、のような形をした剣。
竜崎勇気、我らが主人公である!
主人公を含む、全ての人間が両手を力なく前へ突き出し、ふらふらとドジ娘(仮)に近づく。包囲網は狭まっていく。
うつむいたドジ娘(仮)は、眼鏡の反射でその表情が読み取れない。
恐怖のあまり肩を震わせ、泣いているように見える。
「ふふふふふふ…」
否、それは素敵で不敵な笑いであった。
「見つけましたわっ! 勇気様!」
空気の流れがほとんどない屋敷の中で、風が吹いた。
風が止むと、そこに居たのは 霧狼忍(むろう・しのぶ)。
諜報・暗殺を生業とする東方の島国のシノビの一族。その次期頭領にして、六竜子の一人、風竜子。
運命の人(?)、竜崎勇気を探して東奔西走。
最近、言動がおかしくなったとの、もっぱらの噂である。
シノビには変装なぞ造作もない。勇気の微かな気配を朱雀公公邸内に感じた忍は、単独潜入に成功したのである。
ドジであったのは、相手を油断させるため、わざとやっていたこと……
いや、最近おかしくなったとの、もっぱらの噂である、断定は避けておこう。
人形の如き人間の集団の中に、忍は己の運命の人を見逃さなかった。
「勇気様!」
対する答えはない、、、、かに見えた。
「ごめん。なんか僕、操られてるっぽい」
さすがは、つい最近世界を救ったことがあるかもしれない主人公。自分の意志でしゃべれると言うことは、完全なコントロール下にはないようである。
が、四肢の自由は完全に奪われている。誉めてばかりもいられない。
「この坊やは、今や私の下僕。完全に制御できないところが、カワイくてね。一番のお気に入りなの」
「なんてことを言うのです? 勇気様は、私のものですわ。返して頂きますわよ?!」
忍君、本気の激怒である。ちなみに、アクセントは「私のもの」につけるべし。
「おい、お前そういう立場なのか?」
「違う……はずだけど」
驚いて尋ねるリュートに、自信なさげに答える勇気。
こうまで強く言われると、なんだかそうだったような気がしてくるものである。
「あら、そうなの? じゃあ、お姉さんのお下がりでいいなら、貴方にお返ししても良くてよ?」
「えっホント?」
「おい! あの娘、今の言葉に反応してるぞ。お前、まさか本当に!」
「違う……と思うんだけど」
「ええ、他人のモノを盗るほど落ちぶれていなくてよ?」
「じゃ、じゃあ。勇気様は、私のモノに!?」
「おいおい」
「違う……と思いたい」
「どうぞどうぞ」
「どうもありがとうございます」
「おい……」
「違う……のかな?」
「なんだか悪い気がしますわ」
「あら、気にしなくていいのよ。私は代わりに貴方を貰うから」
「はい?」
満面の笑みで見つめ合う、二人の女。
そして、戦闘が始まった。
忍は、自分の額にのばされた手をとっさに振り払い、飛び退く。
「やはり、力ずくでないといけないようですわね?」
そう言うエリナをよそに、忍は独楽(コマ)のようにくるくると回転しながら、飛びかかってくる周りの人形たちを弾き飛ばす。
回転が終わったとき、忍を中心とした半径数メートルの空間ができていた。
中央にて、逆手にもった二本のクナイを構える忍君。
オンステージといった所である。
「けっこう好条件の取引だと思ったんだけれど?」
エリナは、沈着冷静な外交官の顔で、眼鏡をずり上げた。
「なあんてね、、、うふふふっ!」
エリナは、突然眼鏡を投げ捨て、スーツまでも脱ぎ捨てた。
そのスーツの下から現れたのは、ゆるゆるとした巫女のような白装束であった。おしろいの上にうっすらとさされた紅。白装束の端に見える、裏地の朱。結い上げた艶やか黒髪にさされた金色の櫛、金枝玉葉のかんざし。両手に雅な扇子を持ち、動いていないのに舞っているように見える。
ふわりと、地上1メートル程のところを漂っている。
同性が見惚れるほどに、妖艶であった。
しかし、何かが欠けていた。現実感が無いのである。
まるで、
「まるで人形みたい……」
人形浄瑠璃に使われる美女の人形のような、エリナの顔が歪んだ。
「私は、イスラーク=エミサル。光に選ばれし人間だ! 光の名の下に貴方を断罪する!」
豹変である。
エリナの低くうなるような声に連動して、「人形」たちが忍君に、三度飛びかかった。
「無駄ですわ!」
いかなる場所へも入り込む風が、「人形」たちの隙間をするりと通り抜けた。
「どうかしら?」
右手のクナイは、しかし、やすやすと受け止められてしまった。
「ごめん」
我らが主人公の手によって、である。
「勇気様、今、お救いいたします」
言葉とは裏腹に、攻撃は厳しい。
勇気は操られていることもあり、本来の動きができない。それにエリナを守りながらの戦いである。
がんばれ、負けるな、主人公!
「…」
いえ、嘘です。ごめんなさい。もうしません。
「がんばるわね、お嬢さん? ご褒美に、私のもう一つのお気に入りを見せてあげるわ!」
運命の人(?)と斬り結ぶ忍君は、殺気を感じて勇気から離れた。勇気もカクカクした動きで、後ずさる。
今まで二人がいた場所を、炎の塊が薙いだ。
「我が居城にて、私のご客人に刃を向けるとは、何事です?!」
朱雀公の装束を纏った、麗子であった。